フェミニズムの復習

「男はフェミニストたりうるか?」
http://d.hatena.ne.jp/ymitsuno/20090107/1231331334
「男はフェミニストを続けうるか?」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090108/1231392035

フェミニズムについて何か言うと火傷する可能性があるが、おそるおそる書いてみる。
上のエントリーに実はうかつにも結構共感してしまった。
なぜこのエントリーにたどり着いたかというと、実は「女なんて嫌いだ」というワードでググッて、ぐるぐるとたどりついてしまったからである。
何か、モテないから男でも自称フェミニストになる、という回路はある種の頭でっかちな人にはありうる方向性であって、でもそんな下心から女性を上っ面だけ優しくしても見透かされるだけで、むしろオラオラ系の傲慢なタイプのほうがモテたりする事実を思い知って、それからはフェミニストであることよりも、上のエントリのブコメにあった「啓蒙されたミソジニスト」として振舞うほうがモテるというパターンになるというのは、決して珍しくないように思うからである。というか、私自身もなりかかっているのである。

それに対して下のエントリでは、そんなのはフェミニズムではない!と喝破したのである。なるほど、上のエントリの著者が考えているのは、あくまで女性は男性と同じであることを目指す、かなり古い間違ったタイプのフェミニズムであり、女性側が一方的に男性側に近づくことを要請されるという点でどこにも平等な点などありはしない。(例えば女性も男性と同様に出産せずに働き蜂のように働くことを要求されるようなものである。)この点は私も反省した。

現在のフェミニズムならば、女性が男性側に合わせるのではなく、女性ならば女性として男性とは異なりながらも、性に関係なくそれ自体として承認されることを要求しているのだと思う。(この辺実はあまり自信がない。私がフェミニズムに関して知っているのは、学生時代、ウィル・キムリッカ『現代政治理論』のフェミニズムの章を読み、岡野八代『法の政治学』を読んで感動したのと、ジュディス・バトラーを時々読んでいるくらいだから。それでこのレベルの理解かと言われるかもしれないが。)

これは、政治理論でいうところの普遍性か差異か、あるいは普遍性の名の下の抑圧に対するアイデンティティ・ポリティクスの問題だと思う。というか、学生時代、そんなことを勉強したのを今さらながら思い出した。

それで、上の男性に対して言うべきことがあるとすれば、あなたがモテたいがためにフェミニストであろうとしたのならば、既成の「らしさ」(これにはフェミニスト「らしさ」も含む)だとか主義・イズムによって目の前の女性を画一的に捉えるのではなく、ひどく凡庸にいえば、相手の個性をあるがままに尊重しよう、ということだろうか。違うかな?これは自戒である。
その証拠に、上の男性は

女性に「二人で歩くとき、男は車道側を歩くのが常識なのに、そうしていない」「外食時は、壁側の席に女性を座らせ、男性は通路側に座るのが常識なのに、そうしていない」と説教されたのだが、これには大きな衝撃を受けた。世の中にそんな法が存在していることも衝撃的だったし、そういうマナーを守ることで、女性が喜ぶということも衝撃的だった。

などと、自分が付き合った数少ない女性から受けた刷り込みを性急に「法」と一般化しているのである。この男性は、自称フェミニスト中も後も、単純な原則や先入観(色眼鏡というか偏見)から相手の女性の人格を判断しているという点で一貫して変化がない。

しかし、下のエントリの著者にも少し賛成できないところがある。

<私>が女として男に語るときには、自らを弱者として位置づけることが避けられないからだ。女の語りは、常に権力関係の転覆の試みでなくてはならず、失敗すればそのマイナスは自分に跳ね返り、より弱い立場に固定化される。これは女と言うポジションだけではなく、すべてのマイノリティとしてのポジションに言えることだ。

私は「わかりたい」という男性を拒絶しようとは思わず、「わかってほしい」と思うけれど、「わからせてほしい」という男性には「わからせてやるもんか」と思う。

とある。私の理論的に最もなじんでいるマイノリティの問題からひきつければ、ここで「女」として語っている事柄を「プロレタリアート」と置き換えてもいいと思う。(現在の日本のプロレタリアートは全く弱者ではないという反論はその通りだがここでは関係ない。これはマルクス主義の「理論上」想定されているプロレタリアートのことだから。)

プロレタリアートは資本家に対して、その階級的立場に立っているがゆえにマルクス主義という「科学」を持っており、物象化のメカニズムを捉えることができるが、それは資本家には決して理解できるものではない、理解できる資本家がいるとしたら、その資本家は全財産を投げ打ってプロレタリアートの立場になるべきだ。<私>がプロレタリアートとして資本家に語るときには、物象化ゆえに自らを弱者として位置づけることが避けられない。だがプロレタリアート弁証法唯物論を基にしてする共産主義革命の語りは、歴史的に勝利付けられているがゆえに常に権力関係の転覆の試みでなくてはならず、失敗すればそのマイナスは自分に跳ね返り、より弱い立場に固定化される。

「わかりたい」という資本家には「わかってほしい」と思うが、「わからせてほしい」という資本家には「わからせてやるもんか」と思う。資本家は打倒すべき存在である。

こうした態度が何を生んだのだろう。あまりに純化した主体であり理論的に先鋭化し続けることによって、弱者を僭称しながらも内部の抑圧を生み出し、外部へと排除していった。フェミニズムマルクス主義の理論から大きく学んでいるが、歴史からも学ぶべきだと思う。というか、ポストコロニアルの理論の最大の成果は、主体の純粋性を粉砕しながらも、抵抗のありようを模索しているところにあるのではないか。
…なんかうまく書けない。また書き足していくつもり。

ただ、

フェミニストはより自由に性について語る技術を与えてくれた。

というところは全く同意できる。フェミニズムは女性だけのものではないと思う。

ところで、下のエントリの著者は、

はたしてこの人は学生時代に本気で私みたいな女と出会いたかったろうか?こんな風にぼろくそに言われるのに?

と書かれているが、出会いたかっただろうと思う。女性に対してあまりに素直なところを見ると、アウフヘーベンしたフェミニストになるぐらいの素質はあったかもしれない。今となっては遅いけど。

はてなダイアリーって面白い。

法の政治学―法と正義とフェミニズム

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