三島憲一『現代ドイツ 統一後の知的軌跡』

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20090105

現代ドイツ―統一後の知的軌跡 (岩波新書)

現代ドイツ―統一後の知的軌跡 (岩波新書)

昨年ミュンヘンからベルリンに向かう電車の中で読んだ本。
ドイツ知識人の現実政治への感性の鋭敏さと、その知的影響力の大きさに羨望とともに、真摯さにうたれて、電車の中で流れる時間をまったく忘れてしまった本。

ハーバーマスフーコー、どちらの理論も理解できて、その両者をどう折り合いつけるかに学生時代は悩んでいたこともあったのだけど、うすうす感じていたことで、現実の集団的政治的実践に使えるのは、やっぱりハーバーマスかな、という結論を学生時代最終的には感じた。個人的な人生観というか、倫理的感受性という点ではフーコー的な立場に立ち続けるのだけど。

著者の立場の中で一貫しているのは、「法」と社会科学にたいする信頼性だろう。左翼から転向してシニシズムに陥いる人間は、一貫して法に対して侮蔑的態度をとり続けているという指摘があり、容赦なく批判したりして、これには反省した。トラックバック先には、「歴史は哲学的概念が作ったのではない」という引用もある。政治の場における哲学的語彙の利用には、慎重でなければならないだろう。自戒をこめて。

歴史を語る方法について。

歴史を語るということは常に後世の目から語るということである。…ファシズムの時代における当事者の視点からしか歴史を語れない、という倒錯した「禁欲主義」に基づく擁護論は、それ自身が後世の目から見た選択であることは別にしても、歴史記述における時間の宿命を忘却している。…もちろん、後世の人間が特権的に前の時代の誤りを断罪するのも愚劣であり、「もし自分があの時生きていたらなにをしたかわからない」と思いながらの批判でなければならない。したがって批判は糾弾ではなく、どのような思考の誤りがあったのかの指摘である。そして場合によっては、そうした思考の誤りが今でも続いていることへの批判となるのだ。


最終章、デリダハーバーマスが協同戦線をはるなかで、ニーチェとカントが出会っており、ヨーロッパというプロジェクトの開始が宣言されているところなどは、その後のEUの歩調の困難さを見るにしても、感動的ですらある。