ratio「政治とは何か」
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安藤君の論文。
『統治と功利』は難しすぎて読めなかったけど、これなら読める。予想どおり面白く、予想していたような道徳的立場。ある種偽悪家的。「〜ちゃんを守る会」等の募金活動の偽善性を論証する。考えさせられるが、やっぱり違うんじゃないかという気もする。ただ、それを論証するのは手ごわい。ちなみに、募金を集めるのに際し、その(被害等の)数字を強調する(例えば「飢餓が予想されるのは100万人!」)よりも、具体的に「〜ちゃんが苦しんでいる!」と広告したほうが、はるかに効果があるだけという調査結果は考えさせられる。
神崎繁「内乱の政治学」
あんまり論旨についていけなかったけど、プラトンが何らかの出来事を無視・抑圧しているという分析は面白い。古典研究の面白みをぐいぐい感じた。ただ、戦争犯罪に対して免責するようなアムネスティーの立場は、現代の内戦後、法秩序の回復を行う平和構築的な立場とは相容れないのではないかと思った。ちなみに、レオ・シュトラウスのことを「行間を読むのは得意だが、行そのものを読むのは不得意なようだ」と注で書く皮肉には爆笑。
一月に眺めた本
- 作者: 斎藤環
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- 作者: J.ハーバーマス,三島憲一
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- 作者: ウィリアム・E.コノリー,William E. Connolly,杉田敦,鵜飼健史,乙部延剛,五野井郁夫
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- 作者: 小坂井敏晶
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- 作者: 塩川伸明
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ドキュメント 戦争広告代理店〜情報操作とボスニア紛争 (講談社文庫)
- 作者: 高木徹
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- 作者: 有限責任事業組合フリーターズフリー
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- 作者: 宇沢美子
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
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岡真理『アラブ 祈りとしての文学』
- 作者: 岡真理
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パレスチナ文学の研究書だが、現下のガザ虐殺の状況下で読んでいると1ページ1ページごとに震えるような洞察がある。(昨日、ガザ虐殺を中止したとの報道があった。)
発行は昨年12月20日だが、まるで今の状況を予期していたかのよう。
虐殺が起きているような悲惨な状況の中で、文学はどんな役に立つのかという文学の大問題に回答している普遍的な射程を持った本である。日本にもこうしたパレスチナ文学の研究者がいるというのは、それだけで非常に貴重なことだと思う。
たぶん、オバマが大統領になってもアメリカのイスラエル政策は変わらないだろう。これまでのところ、オバマはイスラエルの攻撃を黙認しているからだ。だが、とりあえず私はイスラエルとブレアとオバマに手紙を送った。
■
夢は破れ、仕事はつまらなく、職場ではバカにされ、趣味はつまらなく、好きな人もいなく、友人にも見捨てられ、家族は暴力を振るい、性欲も物欲もなく、世界では非道な虐殺がおきている状況で、生き続ける理由とはなんだろうか。
フェミニズムの復習
「男はフェミニストたりうるか?」
http://d.hatena.ne.jp/ymitsuno/20090107/1231331334
「男はフェミニストを続けうるか?」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090108/1231392035
フェミニズムについて何か言うと火傷する可能性があるが、おそるおそる書いてみる。
上のエントリーに実はうかつにも結構共感してしまった。
なぜこのエントリーにたどり着いたかというと、実は「女なんて嫌いだ」というワードでググッて、ぐるぐるとたどりついてしまったからである。
何か、モテないから男でも自称フェミニストになる、という回路はある種の頭でっかちな人にはありうる方向性であって、でもそんな下心から女性を上っ面だけ優しくしても見透かされるだけで、むしろオラオラ系の傲慢なタイプのほうがモテたりする事実を思い知って、それからはフェミニストであることよりも、上のエントリのブコメにあった「啓蒙されたミソジニスト」として振舞うほうがモテるというパターンになるというのは、決して珍しくないように思うからである。というか、私自身もなりかかっているのである。
それに対して下のエントリでは、そんなのはフェミニズムではない!と喝破したのである。なるほど、上のエントリの著者が考えているのは、あくまで女性は男性と同じであることを目指す、かなり古い間違ったタイプのフェミニズムであり、女性側が一方的に男性側に近づくことを要請されるという点でどこにも平等な点などありはしない。(例えば女性も男性と同様に出産せずに働き蜂のように働くことを要求されるようなものである。)この点は私も反省した。
現在のフェミニズムならば、女性が男性側に合わせるのではなく、女性ならば女性として男性とは異なりながらも、性に関係なくそれ自体として承認されることを要求しているのだと思う。(この辺実はあまり自信がない。私がフェミニズムに関して知っているのは、学生時代、ウィル・キムリッカ『現代政治理論』のフェミニズムの章を読み、岡野八代『法の政治学』を読んで感動したのと、ジュディス・バトラーを時々読んでいるくらいだから。それでこのレベルの理解かと言われるかもしれないが。)
これは、政治理論でいうところの普遍性か差異か、あるいは普遍性の名の下の抑圧に対するアイデンティティ・ポリティクスの問題だと思う。というか、学生時代、そんなことを勉強したのを今さらながら思い出した。
それで、上の男性に対して言うべきことがあるとすれば、あなたがモテたいがためにフェミニストであろうとしたのならば、既成の「らしさ」(これにはフェミニスト「らしさ」も含む)だとか主義・イズムによって目の前の女性を画一的に捉えるのではなく、ひどく凡庸にいえば、相手の個性をあるがままに尊重しよう、ということだろうか。違うかな?これは自戒である。
その証拠に、上の男性は
女性に「二人で歩くとき、男は車道側を歩くのが常識なのに、そうしていない」「外食時は、壁側の席に女性を座らせ、男性は通路側に座るのが常識なのに、そうしていない」と説教されたのだが、これには大きな衝撃を受けた。世の中にそんな法が存在していることも衝撃的だったし、そういうマナーを守ることで、女性が喜ぶということも衝撃的だった。
などと、自分が付き合った数少ない女性から受けた刷り込みを性急に「法」と一般化しているのである。この男性は、自称フェミニスト中も後も、単純な原則や先入観(色眼鏡というか偏見)から相手の女性の人格を判断しているという点で一貫して変化がない。
しかし、下のエントリの著者にも少し賛成できないところがある。
<私>が女として男に語るときには、自らを弱者として位置づけることが避けられないからだ。女の語りは、常に権力関係の転覆の試みでなくてはならず、失敗すればそのマイナスは自分に跳ね返り、より弱い立場に固定化される。これは女と言うポジションだけではなく、すべてのマイノリティとしてのポジションに言えることだ。
私は「わかりたい」という男性を拒絶しようとは思わず、「わかってほしい」と思うけれど、「わからせてほしい」という男性には「わからせてやるもんか」と思う。
とある。私の理論的に最もなじんでいるマイノリティの問題からひきつければ、ここで「女」として語っている事柄を「プロレタリアート」と置き換えてもいいと思う。(現在の日本のプロレタリアートは全く弱者ではないという反論はその通りだがここでは関係ない。これはマルクス主義の「理論上」想定されているプロレタリアートのことだから。)
プロレタリアートは資本家に対して、その階級的立場に立っているがゆえにマルクス主義という「科学」を持っており、物象化のメカニズムを捉えることができるが、それは資本家には決して理解できるものではない、理解できる資本家がいるとしたら、その資本家は全財産を投げ打ってプロレタリアートの立場になるべきだ。<私>がプロレタリアートとして資本家に語るときには、物象化ゆえに自らを弱者として位置づけることが避けられない。だがプロレタリアートが弁証法的唯物論を基にしてする共産主義革命の語りは、歴史的に勝利付けられているがゆえに常に権力関係の転覆の試みでなくてはならず、失敗すればそのマイナスは自分に跳ね返り、より弱い立場に固定化される。
「わかりたい」という資本家には「わかってほしい」と思うが、「わからせてほしい」という資本家には「わからせてやるもんか」と思う。資本家は打倒すべき存在である。
こうした態度が何を生んだのだろう。あまりに純化した主体であり理論的に先鋭化し続けることによって、弱者を僭称しながらも内部の抑圧を生み出し、外部へと排除していった。フェミニズムはマルクス主義の理論から大きく学んでいるが、歴史からも学ぶべきだと思う。というか、ポストコロニアルの理論の最大の成果は、主体の純粋性を粉砕しながらも、抵抗のありようを模索しているところにあるのではないか。
…なんかうまく書けない。また書き足していくつもり。
ただ、
フェミニストはより自由に性について語る技術を与えてくれた。
というところは全く同意できる。フェミニズムは女性だけのものではないと思う。
ところで、下のエントリの著者は、
はたしてこの人は学生時代に本気で私みたいな女と出会いたかったろうか?こんな風にぼろくそに言われるのに?
と書かれているが、出会いたかっただろうと思う。女性に対してあまりに素直なところを見ると、アウフヘーベンしたフェミニストになるぐらいの素質はあったかもしれない。今となっては遅いけど。
はてなダイアリーって面白い。
- 作者: 岡野八代
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恋愛とかね。くだらね。
昨日NHKスペシャルで女と男の違いを脳科学から見るという番組がやっていた。特に今回第1回目は恋愛をしているとき脳がどのように動いているかを脳科学から見るという特集だった。
こういう「最新の脳科学が明らかにした男女の違い!」的なものはなんとなくいかがわしいトンデモ科学の匂いが濃厚で、特に男女の違いを狩猟採集時代の男女の役割の違いに基礎付けたりするところが特にそうなのだけど、そのことは今日の日記の本題ではない。
この特集のなかで「男女の恋愛は3年しか続かない」ということがフィーチャーされていていて、ではどうしたら恋愛を長続きさせられるか、ということが話題の中心になるのだけど、そのことも今の自分にとってはどうでもよい。
私が気になるのはそもそも「男女の恋愛は3年しか続かない」ということである。だって、私は8年前に好きだった人のことが未だに好きで引きずっているのだから。これは脳科学的にはどういう状態なんでしょうか。
その人は、私より2つ年上で、演劇好きな、日本国籍をもたない在日韓国人の女性で、独特な感性というか勘のよさを持った不思議な魅力を持った女性だった。
私は彼女に一度告白し振られ、しばらく会わなくなってからまた会うようになったころ、彼女のほうから一緒にイタリアに行かないかと誘われ、二人で旅行したした仲である。旅行中、病気にかかってしまいそういう気分になれなかったのが大きいけど、旅行中に彼女とセックスしなかったのは、私は彼女のことがとても好きだったので、彼女とセックスしてしまうと、セックスの後急に気持ちが冷めてしまうのが怖かったからというのも理由のひとつである。好き過ぎるとセックスができないというのも、男にはありうるのである。それがひょっとしたら近親相姦的な恐怖に基づいているものかもしれないけど。
私が最初彼女に惹かれたのは、当時、ナショナリズム論に関心を持っていたのがあって、在日韓国人という人たちはどのようなアイデンティティを持っているか興味があったからである。
彼女は私のそうした下世話な社会学的理由からの、研究対象としての関心からの好意を、多分あまり気持ちよく思っていなかったのだと思う。でも、彼女の独特の魅力がどこから生まれてきたかを考えると、家業が焼肉店であり、商家特有の気さくな点と、一家で団結して商売を営むことから来ていると思われる家族思いな点などは、彼女の家の由来と切り離しがたく魅力を作っているように感じた。
私などは、日本国籍を有し、ちょっとばかりペーパーテスト能力があったばかりにあるお金持ち有名中高一貫校に通っていたこともあって、青年期に左翼思想に触れてからも、自分の出自や育ちから地金が出て保守化するのじゃないかという恐れを常に抱いていて、揺るぎなく左翼思想と自分の体感が一体化するアイデンティティを持った人に憧れていて、その点で、在日韓国人であり、政治にも少し関心がある彼女に憧れていたのだと思う。
加えて、彼女のほうが年上であったという点も、彼女を好きになった理由の大きなひとつだと思う。
これに関しては私は未だに理由がよくわからない。母親の影響が良くも悪くも大きすぎて、年上に思い入れが大きくなったのだとか、インテリは年上を好きになる傾向があると言われたこともあったし、自分の劣等感を包み込んでくれる母性のようなものを求めていたのかもしれないとか、いろいろ考えるけど。
あと、彼女は演劇など感性的なものが好きだったというのも理論偏重の自分にはない特徴で、そうした感性的なものを持っている人への憧れは大きくあったと思う。
彼女のほうは私のほうからのそうした過剰な思いいれを、少し嫌がっていたのか、それとも重荷に感じていたのか、今でも彼女の気持ちはよくわからない。
でも、一度彼女に振られてからは、彼女のことをそうした属性からではなく、ありのままに見つめようとした。その結果、一緒に二人で海外旅行に誘われる仲になるまでには信頼されるようになったのだと思う。
結局、旅行後にどうしても好きなんですとメールで告白したところ、ちょっと考えさせてほしいといわれ、どうしても返事がかけないと言われ、返事がないまま今の状態にいたり、8年間もうほとんど会うこともなくなった。
今となっては、メールで告白したという告白の仕方が悪かったとか、彼女の属性への思い入れからの好意を彼女は嫌がったとか、セックスしなかったのだって要するに自分に自信がなかったからだろ、とか、結局都合のよいキープ君として使われたのだとか、日本人と付き合うことに怖れを抱いていたのかとか、いろいろ考えるのだけど、彼女が何を考えていたのかわからなく、考えても考えても答えは出ないまま8年が経過し、しかもそれ以来好きな子もできないまま。
今は、なぜその子にそんなにこだわっているのかわからない、こんな状態でいるのはつらい、あの子よりいい子なんているのか、いやもう女の子なんて関わりたくない、女なんて嫌いだ、そもそも今はもうセックスが出来る体の(というか心の)状態じゃないし、とぐちゃぐちゃどろどろした感情がとぐろを巻いている状態となっている。
あるいは私にとって彼女は、おそらくミラン・クンデラの小説『存在の耐えられない軽さ』の中の、フランツにとってのサビナみたいなものかな、と考えることもある。
- 作者: ミラン・クンデラ,千野栄一
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考えをまとめて字にすることによって、少し症状が軽くなるというある種の談話療法は、大学院の時につらかったことをまとめてみたこの日記の第二回目のエントリーで経験しているので、ここでもまたやってみた。何か思い出すことがあればまた書き足していくつもり。
三島憲一『現代ドイツ 統一後の知的軌跡』
http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20090105
- 作者: 三島憲一
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ドイツ知識人の現実政治への感性の鋭敏さと、その知的影響力の大きさに羨望とともに、真摯さにうたれて、電車の中で流れる時間をまったく忘れてしまった本。
ハーバーマスとフーコー、どちらの理論も理解できて、その両者をどう折り合いつけるかに学生時代は悩んでいたこともあったのだけど、うすうす感じていたことで、現実の集団的政治的実践に使えるのは、やっぱりハーバーマスかな、という結論を学生時代最終的には感じた。個人的な人生観というか、倫理的感受性という点ではフーコー的な立場に立ち続けるのだけど。
著者の立場の中で一貫しているのは、「法」と社会科学にたいする信頼性だろう。左翼から転向してシニシズムに陥いる人間は、一貫して法に対して侮蔑的態度をとり続けているという指摘があり、容赦なく批判したりして、これには反省した。トラックバック先には、「歴史は哲学的概念が作ったのではない」という引用もある。政治の場における哲学的語彙の利用には、慎重でなければならないだろう。自戒をこめて。
歴史を語る方法について。
歴史を語るということは常に後世の目から語るということである。…ファシズムの時代における当事者の視点からしか歴史を語れない、という倒錯した「禁欲主義」に基づく擁護論は、それ自身が後世の目から見た選択であることは別にしても、歴史記述における時間の宿命を忘却している。…もちろん、後世の人間が特権的に前の時代の誤りを断罪するのも愚劣であり、「もし自分があの時生きていたらなにをしたかわからない」と思いながらの批判でなければならない。したがって批判は糾弾ではなく、どのような思考の誤りがあったのかの指摘である。そして場合によっては、そうした思考の誤りが今でも続いていることへの批判となるのだ。
最終章、デリダとハーバーマスが協同戦線をはるなかで、ニーチェとカントが出会っており、ヨーロッパというプロジェクトの開始が宣言されているところなどは、その後のEUの歩調の困難さを見るにしても、感動的ですらある。